「彫刻書記展」に寄せて 鈴木操
本企画「彫刻書記展」は、私たちという存在に先行するものたちへの思慮から着想されました。
現代のグローバルな時間軸や資本主義空間では、地政学的あるいは生態学的に現実社会を分析し芸術活動として展開する傾向がもっぱらですが、しかしその根拠となっている、それぞれの芸術カテゴリーが持つ個別な時間性やその組み替えを、どのように眼差していくかの工夫を、私たちは怠るわけにはいきません。
なぜなら、社会が陥っている分断や困窮に対し、どのように向き合っていくべきかの精神的な道具立てを、芸術はそれ自身の深みにおいて、これまで開示してきたからです。
絞った視点になりますが、元来コンセプチュアルアートやパフォーマンスアートは、グリーンバーグ流のフォーマリズムから逃れる為に開発されたものでした。そしてこのような反フォーマリズム的発話が作り出した時勢と結びついた彫刻という技芸は、放出的に解体・拡散していきました。
現在そのベクトルは、必然的に国や起源性といった同一性を根拠とする振る舞いと合流し、それはアウトドアの只中にあるように見えます。
では今改めて、「彫刻とは何か」と、問いを立ててみましょう。
現在の社会が複雑に反映された芸術状況の中では、この問いが持つニュアンスは大きく変わりつつあり、いささか自閉的な操作であるように見えるかもしれません。
ただそのような見方は、彫刻という関数の陳腐な標準化を進めるものになると考えます。
と言うのも、彫刻が歩んだ解体の歴史は、明らかに偶然の中で展開されたにも関わらず、現在では当たり前のことであったかのように、疑いなく参照されています。
その意味において、現在彫刻が取り戻すべき外部性は、むしろ「彫刻とは何か」を問うことの中にあると考えます。
彫刻は今、新しく始まる契機を得ています。
そして本企画が目指すところは、新たな彫刻の基盤作りであり、またその足がかりの共有です。それを押し進めることで、時代の変わり目である今、新たな価値観の提示が出来ることを確信しています。
-
なぜ書記展なのか
言葉が発せられる空間やその状況は、ダイレクトに観客の創出に影響します。今回彫刻の個別な時間性にアクセスするために、そのような時間の流れが可能となる空間の設定が必要であると考えています。現在、twitterやnoteの様なブログ的プラットフォームの利用において、テキストを発信することが簡易になってきています。しかし情報化が日々進む社会において、与えられたプラットフォームに集中的に情報が集まり言葉が留まることは、そのような空間がすでに持つ雰囲気や空気、運営する人間にイニシアチブが握られてしまうことを意味します。このような情報環境の中、あくまで「展示」という形式に留まる形でテキストを脱臼的に発信してみる試みです。