ステートメント
構造と表面:幻想を解体する方法
コミュニティは保守的で幻想である。しかしながらコミュニティは存在し、それが機能すると、国家権力へのパワーバランスになる。
そのコミュニティはとにかくいろんなものがあり、目に見えるものではない。目に見えるようにすることで、そこにコミュニティがあると認識することになる。それが認識された途端、ある種の力になり、これがパワーバランスを確保するために有効である。例えば裁判に勝つことが勝利ではない。その行動が世間に認知され続けると全体の構造に調整が入ることになる。
私たちは現状を打破する方法は「革命しかない」とは全く思っていない。
もちろん、人類は動物であり、その辺はおバカなので、なかなか血なまぐさい方向を避けるのが苦手な時代が続いたし、今後もそれはあるだろう。
でも、戦争中であろうと、脈々と続くコミュニティ(この言葉は漠としすぎているけどね)はこれまでも、これからも続いていく。
作品は地権かもしれないし、建物やモノの薄っぺらな表面かもしれないけど、これらに通底していることは、コミュニティを育んでいるということである。これは何者かの、大抵はマイノリティの安全地帯である。
コミュニティとは、3人以上のグループが同じ空間を共有し、会話を交わらせることで、次第に何らかの同じような考えを共鳴していき、それぞれにとって居心地の良い環境を作り上げた場合のその場のことだと思う。
たまたま同じ町内に住むということでつくられるコミュニティもあるが、ここでも、結局は、最も意気投合した核となる人々によって町内にとって最適解となることを決めた上で、町内からの支持を受けて継続している。
インターネット空間でも、どこまで奥底までつながりあっているかどうかは問題ではなく、上のようなコミュニティは存在していると感じる。個人的には、一回物理的に出会った方が、より充実したコミュニティを形成できる気がする。
それで思い出した。
僕らは結局、物理的な行動をとっている。形而上なことを夢想しているわりには、実践的には愚直なまでに身体を必要とする活動だと思う。
僕らはありうべき構造と表面で包摂しようとする。そのための展覧会を開催する。
堀崎剛志